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裕福な家庭で育った青年が全てを捨てて、放浪の果てに見つけたものとは。
Text & Illustration by Yoshimi Yoshimoto (Design Studio Paperweight)
故中島らもの著作の中にこんな言葉がある。
「僕は”自由”という言葉を尊んで、そのために勝ったり負けたりしながら生きてきた人間である。言っておくが、”自由”というのは決して美しい言葉ではない。自由を選べば人間は生きていく上では非常に不自由になる。そのために耐え忍ばねばならない孤独や心細さに比べると、我を折って”掟(おきて)”の持つ不条理に耐えるほうがはるかに苦痛は少ないと言える。
ただし、そのどちらを選んでも苦しみと安楽さの収支決算はたいしてちがわないようにも思える。自由は冷たくて寒いものだし、束縛はあたたかいが腐臭がする。どちらを選ぶかは”コブラがいいですか、タランチュラがいいですか”と問われているようなものだが、少なくともその選択はそれらを引き受ける本人によってなされるべきだ」
…まるでこの映画『イントゥ・ザ・ワイルド 』の主人公クリス・マッカンドレスの行動と精神を語っているかのように思える。中島らもは比較的裕福な家庭に育ち、進学校で青年期を過ごし、サラリーマンを真っ当に数年務め(コピーライター兼営業職)、後に社会が個人に強要する協調性に疑問を投げかける孤高の作家となり、国の構成員の1人として「我」を捨てるような事を死ぬまで嫌った。クリスも又ヴァージニアの裕福な家庭に育ち、アトランタの大学を優秀な成績で卒業したし、知性も分別もある恵まれた境遇の青年だ。
『イントゥ・ザ・ワイルド 』は1992年前後に起きた実話を元にしている。インサイドでは無く、アウトサイドの道を歩む者、アウトサイダーが生きてゆくには90年代は辛い時代だ。しかしクリスは予定調和や偽りの協調を嫌い、孤独な旅に出た。所有していた車と持ち物を捨て、財布に残った紙幣を焼いて、親にも所在を一切知らせず、物質社会を嫌いそれまでの自分を消し去った。そして季節短期労働とヒッチハイクを繰り返し、アメリカを巡り未知の自然に触れながらやがて北上、アラスカ山脈の北麓、住む者のない荒野へ徒歩で分け入っていった。4ヶ月後、ヘラジカ狩りのハンターが、捨てられたバスの中で、寝袋にくるまり餓死している彼の死体を発見する…。
この映画を監督したのは、『ミルク』で2009年のアカデミー主演男優賞を受賞したショーン・ペンだ。彼はクリスの旅を追ったジョン・クラカワー原作のノンフィクション小説『荒野へ』を読み、映画化を切望し、10年近い準備期間を経て自ら監督を努めた。ショーン・ペンの視線は繊細なクリスの感性に同調しつつ、深く入り込み過ぎて主観だけに陥らず、冷静にその軌跡をあぶり出す。あるがままを選ぶ事の苦しみと特別な場所で瞬間瞬間を生きる純粋な精神、それらが交互にたち現れ、随所に広大な自然が描かれる。
綿密な絵作りに寄り添うようなサウンドトラックが素晴らしい。パール・ジャムのフロント・マン、エディ・ヴェダーの初ソロ作品だ。10年来の盟友であるショーン・ペンたっての頼みで引き受けたらしいが、出来映えはアグレッシブなグランジのパール・ジャム以上では無いか。時にはフォークの切り口で、時にはブルースの語り口で、アコースティックな音色がクリスの心象風景を美しく彩る。エンディングテーマが響く頃には、そのあまりの無垢な美しさが胸を打ち、内なる自然への憧れに対峙出来ているはずだ。
社会の醜い面を憎むばかりでは人は生きられない。理想と現実を折半しながら進むしか無いぼく達から見れば、クリスの選択は確かに甘い。しかし、映画を見ている間ある種の感慨に包まれてゆく。未経験なあまり様々な失敗を重ね、同時に何からも自由だった青年期の自分を思い返す。あらゆる可能性を模索していたあの頃に帰ってゆけるような気分だった。